朝遅く、シーツの感触を確かめながら目を覚ました。まだ眠りの余韻が肌に残っている。
旅の計画を立てるとき、ブエノスアイレスの数え切れないほどのホテルに、「お手洗いでは紙を流しても大丈夫ですか?」とメールを送った。何度か繰り返したやりとりの中で、このホテルが最も早く、そして明確にこう答えてくれた。
“Yes, you can flush toilet papers in any of our guest rooms’ toilet.”
迷う理由はなかった。

ホテルを出て、ゆっくりと街を歩く。まだ朝の空気がほんのりと冷たく、通りの隅に残る昨夜の気配が微かに漂っている。
南米の都市でイタリアンを
ホテル近くに、カジュアルなイタリアンレストランを見つけた。ブエノスアイレスのイタリア料理は美味しいと聞いていた。

木製のプレートの上に、熱々のピザが運ばれてくる。厚みのある生地の上に、とろけるチーズとトマトソースが広がり、オリーブとバジルが鮮やかに添えられている。ゆっくりと噛み締めながら、目の前の景色を眺める。
ここは南米の都市。けれど、ふとした瞬間に感じるのは、どこか懐かしいヨーロッパの香り。ブエノスアイレスでの最初の食事は、期待を裏切らなかった。
カプチーノのミルクの泡がなめらかに溶けて、ほのかに香るエスプレッソの苦味がちょうどいい。
旅は始まったばかり。
ブエノスアイレスの静かな記憶——レコレータ墓地
時間の流れが、少しだけ柔らかくなる瞬間がある。
たとえば、静かな午後。
たとえば、陽射しの中で木々の影が揺れるとき。
レコレータの公園に着いたとき、ふと足を止めた。芝生の緑が、空の青と溶け合う。白い教会の塔が、ゆるやかな時間の中に佇んでいる。


“Requiescant in pace.”
安らかに眠れ、と刻まれた石碑の下を通り、陽射しを受けて鈍く光る白い霊廟の間を歩いた。花が手向けられた墓、黒い鉄格子の扉、刻まれた名前。
そこに眠る誰かの人生を思う。
ひんやりとした空気の中、鳥の鳴き声が響く。
エビータの眠る墓の前で立ち止まる。「アルゼンチンの母」と呼ばれた彼女の名は、今もこの国の人々の記憶に刻まれている。
写真に収めようと、スマホを取り出しかけて、やめた。
ここに眠る人たちの静けさを、シャッター音で乱したくなかった。写真には残さない。ここで感じた空気は、そのまま記憶に刻む。
ゆっくりと門を出る。
外に出ると、レコレータの空が、さっきよりも少しだけ広く感じられた。

世界で二番目に美しい書店、エル・アテネオ
通りを歩くと、白いファサードの建物が見えてきた。

エル・アテネオ。劇場だった場所が、今は書店になっている。
扉をくぐると、光の落ち方が少し変わった。天井の高い空間、赤いカーテン、シャンデリアの灯り。
バルコニーに沿って階段を上る。視界が広がるたびに、本の森が深くなる。
吹き抜けの空間に、ページをめくる音が静かに響いていた。誰かが本を開き、誰かが棚の前で足を止める。劇場だったころ、ここでどんな物語が演じられていたのだろう。今も、その名残がどこかにある気がする。三階まで上がると、建物全体が見渡せた。


劇場の記憶を纏いながら、本たちは静かに並んでいる。ここでは、物語は語られず、ただ待っている。読む人が現れるのを。
そう思うと、この場所はやっぱり、劇場のままだった。

マルベックの余韻
夜、ホテル近くのバール。
メニューを開くと、ワインリストのスペイン語が目に飛び込んでくる。迷っていると、若い女性店員が微笑みながら尋ねた。
「White or Malbec?」
赤を飲むなら、マルベック。この国のルール。
グラスに深いルビー色の液体が注がれる。果実の甘みと、スパイスの余韻。昼間の陽射しとは違う、静かで確かな熱が喉の奥を滑っていく。

テーブルの上には、たっぷりのトマトソースを纏ったラビオリ。ゆっくりと噛みしめると、ハーブとチーズの風味が広がる。
誰かの低いスペイン語。ゆるやかに流れる時間。
翌朝は早いフライト。それなのに、このバールの居心地が良すぎて、夜更かししてしまう。
——グラスの中のマルベックが、少しずつ減っていく。
