香港映画で見たあの場面の中に入りたくて、ずっと心の片隅で願っていた場所。
そのスクリーンの中の光景を、今夜は自分の目で確かめに行く。
シャワーを浴びる。ほんの少しだけ、髪にオイルをなじませる。
鏡に映る顔は、この旅最後の夜にふさわしい顔をしていたと思う。
タクシーでサンテルモへ。
石畳の細い路地を抜けると、クラシカルな建物の角にBar Surのファサードが現れた。

鍵のかかった扉の向こうから、赤いカーテンとほのかな灯りが漏れている。

カーテンの隙間から中を伺っていると、こちらに気づいた年配の女性が迎えてくれた。
壁に飾られた古い絵画、ベルベットのカーテン、床に敷き詰められた白黒のタイル。
フロアの中央がステージで、観客と演者の境目はどこにもない。
若いボーイがテーブルに水を置き、穏やかに微笑む。
「White or Malbec?」
この街では、何度もこう聞かれた。
今夜も迷わず、マルベックを選ぶ。グラスに注がれた濃い紫が、夜の静けさと溶け合う。
やがてピアノが床を震わせる。バイオリンが泣くように旋律を切る。
タイトルも作曲家も知らない曲だけれど、夜の空気にぴったりで、初めて聴くのに懐かしいような気持ちになった。
カーテンの向こうから、ダンサーが現れる。
ルビー色のドレスの女性と黒いタキシードの男性。
視線が絡み合い、静かな緊張が走る。
フロアが静まり返った瞬間、バンドネオンが息を吐く。
ダンサーが最初の一歩を踏み出し、照明が身体の輪郭を浮かび上がらせる。
触れられそうな距離で、靴音がタイルをかすめ、ドレスの裾が翻る。
どこか寂しげで、目が離せなかった。
演目の合間には歌手が現れ、深い声で歌を紡ぐ。
声がワインの余韻に重なり、空気を震わせる。
まわりでは何人かがスマホをかざして写真や動画を撮っていたけれど、ポケットの中のスマホは、そのままにしておいた。
それが、この夜への敬意だと思った。
気づけば、夜の中に時間が沈んでいた。
ボーイに「Another glass?」と訊かれ、静かに首を振る。
これ以上、満たされたくなかった。
外へ出ると、石畳はしっとりと濡れていた。
走り出した車の窓越しに、街の灯りが静かに後ろへ流れていく。

街は眠りかけていたが、まだどこかに優しい光を残していた。
部屋に戻り、ジャケットを脱ぐ。
ルビー色のドレスの揺れが、まだ瞼の裏に残っていた。
おやすみ、ブエノスアイレス。